大河ドラマ花燃ゆ=第8話=豆知識その19唐人お吉 [花燃ゆ]
『花燃ゆ』主人公:杉文(井上真央)
第8話での年齢12歳14歳
(1845年)1843年3月1日生まれ
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第8話の主な出来事
------------------
・兄 吉田松陰(伊勢谷友介)松下村塾を開きそう
・後の夫 久坂玄瑞 再登場 松陰の手紙のやり取り
・従兄弟 吉田稔麿 明倫館就学出来ず
・塾生 高杉晋作 登場
------------------
同じ頃、吉田松陰にもゆかりの地、下田で悲しい物語
が、始まろうとしている。
→:は大河ドラマ花燃ゆ、八重の桜に関する事柄と
時代背景
そう、下田で悲しい物語と言えば、『唐人お吉』
である。
唐人お吉、本名を斎藤きちという。
1841年12月22日-1890年3月27日(享年59)
→杉文からは4つ上となる。
→山本八重も杉文と同じ年なんですよ。
→山本八重は杉文より2つ下なんですよ。
愛知県南知多町内海で生まれる。
父親は船大工を営んでいた。
→吉田稔麿、伊藤博文誕生
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1845年(4歳)に一家で下田坂下町に移り住む。
船大工の仕事を求めてのことだろう。
→杉文が生まれる。
→杉敏三郎が生まれる。
1848年(7歳)河津城主の愛妾 山村せんの養子とな
り、せんから、琴、三味線所謂芸事を習う。
→杉家 松陰神社の地に移居する。
1854年12月23日(13歳)安政の東海地震発生
津波で家を流されたお吉は実家の斎藤家に身を寄
せることとなった。
→松陰 黒船密航
→小田村伊之助の長男 希家誕生
1855年(14歳)せんが亡くなり村山家から離縁され
芸者となり名を「お吉」とする。
瞬く間に下田一の人気芸者となる。
写真でお分かりのようにかなりのベッピンさんで
ある。人気芸者になるのも当然だ。
お吉は「新内明烏のお吉」と唄われる程の評判と
美貌の持ち主だったという。
新内=浄瑠璃の唄い方ひとつ
明烏=新内の三大名作のひとつ明烏(明烏夢泡雪)
この唄が評判になったということです。
→松陰が野山獄がら出獄し杉家での蟄居となる。
→花燃ゆ第7話での事柄
※引用元:http://bakumatsu.org/men/view/232
写真は当人ではないという説もあるが定かとはさ
れていない。
1857年5月(16歳)日本初代アメリカ総領事タウン
ゼント・ハリスが体調を崩し床に伏した。
その為、世話をする看護婦が必要となりった領事
館は、地元の役所(下田奉行所と思われる)に、
看護婦を要請した。
→吉田稔麿 明倫館入学を断られる
→杉家の敷地に松下村塾を開塾
→大河ドラマ花燃ゆ第8、9話での事柄
当時、日本には看護婦の概念が無かった為、妾や
娼婦と勘違いし、芸妓を斡旋した。
という説とは
別に、色仕掛けでハリスを落とし幕府の交渉事を
優位にしようとした。説がある。
前者が広まっているが、どうも後者が正しいと思
われる。
下田奉行所支配頭取の伊佐新治郎は人気芸者であ
ったお吉に白羽の矢を立てた。
だが、お吉には幼馴染の婚約者がいた為、奉行所
の要請を固辞した。
奉行所も、はい、そうですかとはいかない。
あの手この手で、お吉に承諾を迫る。
その手は、幼馴染の大工 鶴松にも及んだ。
一説では、鶴松にお金を渡して下田から追い出し
たという。
とうとう、お吉も承諾して、領事館に従事知るこ
ととなる。
領事館は、下田の玉泉寺に置かれていた。
(1856年-1859年)
現在では、
境内にはハリス記念館が併設されている。
日本に初めて牛乳が伝えられた地でもある。
カーター大統領を始め歴代のアメリカ総領事も訪
れる日米友好地となっている。
※引用元:http://www.izu.co.jp/~p-boo/gyokusenji.html
領事館に従事したお吉だが従事する経緯を知った
ハリスは激怒して、3日間でお吉は解雇された。
従事する経緯とは、前出の妾説か色仕掛け説、婚
約者説のいずれかは、解っていない。
直さま、斎藤家は復職を願い出て、願いが聞き入
れられた。
お吉の給金目当てのことだろうと推測される。
お吉の給金
ハリス侍妾の支度金25両
年俸 120両(月10両)
(他のハリスの召使いは月1両2分)
当時は、10両盗めば首が飛ぶと言われていた。
再び、領事館に従事することになったお吉だが、
約3ヶ月後には、ハリスが回復し、お役御免とな
った。
なので、お吉が貰った給金は支度金と合わせて、
55両となる。
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その後、お吉は元の芸者に戻る。
当初は同情的だった周囲の人達だが、次第に羽振
りが良くなるお吉に嫉妬、侮辱の目を向けるよう
になっていく。
ここで、疑問が出てくることがある。
領事館に従事した、日本女性はお吉の他にも4人
いることが解っている。(名前も解っている)
何故、お吉だけがバッシングを受けることになっ
たのだろう。
考えられる理由は、
・一度クビになったのに給金欲しさに願い出た。
・2ヶ月しか働いていないのに3ヶ月分の給金を
手にした。
月給なので1日でも働けば1ヶ月分貰えた。
・城主の愛妾の養子であった。
・生まれが他の地域である。
などが、挙げられる。
羨ましいが嫉妬になり、浅ましいとか、意地汚い
といった感情を尾ヒレに噂が広まったのだろう。
よそ者なので、ターゲットに成り易かったのも災
いしていたのだろう。
他の4人は地元の人だったのではないだろうか?
バッシングを受け続けたお吉は、次第に、酒の溺
れていく。
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そんな日々を過ごしていたお吉だが、1959年にハ
リスが江戸に移った後、暫くして、下田を出た。
→安政の大獄 吉田松陰 斬首
→大河ドラマ花燃ゆ第12話当たりになりそうな事柄
下田を出たお吉は芸者で路銀を稼ぎながら、各地
を放浪し、約9年後横浜に辿り着く。
横浜で幼馴染で婚約者だった鶴松と再開した。
お吉は鶴松が横浜にいることを知っていて横浜を
目指したんだろうな。
横浜で鶴松と一緒に暮らす。お吉28歳の事である。
1869年であろう。
→旧幕府軍(榎本武揚、土方歳三)が
「蝦夷共和国」を樹立
→明治天皇が東京に到着
→箱館戦争が終結
→版籍奉還が成る
→戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として、
東京招魂社(のちの靖国神社)が創建される
→蝦夷地を北海道と改称
→皇后が東京に到着
→関所が廃止される
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お吉、鶴松は、下田に戻りる。
お吉は髪結い、鶴松は船大工を営む。
だが、お吉へのバッシングは続いており、髪結い
の商いは芳しくなかった。その為、お吉は酒に溺
れるようになっていく。
夫婦喧嘩も耐えなくなる。
5年後は、鶴松と別れる。その後すぐ鶴松は病死。
鶴松(幼名)=川井又五郎
お吉は再び下田を離れ、三島の金本楼で住み込み
の芸者をする。(1877年36歳)
→山本覚馬 京都府会議員初代議長となる
→西南戦争
→東京大学、明治学院大学、学習院設立
三島での暮らしも2年余りで下田に戻り、髪結い
を営みながら、宴会の席もこなしながら生計を建
てていた。(1880年39歳)
そんな生活を続けていたが、お吉への周囲の偏見
はいまだに謂えていなかった。
そんな、お吉を哀れに思った船主の後援で、小料
理屋「安直楼」を開く。
しかし、既に、酒に犯されたお吉は、酔って暴れ
たりしていた為、2年程で閉店となった。
現在も「安直楼」の建物が残されている。
※引用元:http://nobuya-w.cocolog-nifty.com/photos/simoda/12antyokurou.html
その後のお吉は物乞いをして生き延びていた。
そして、1890年3月27日遂に、悲劇が起きた。
お吉は、下田の稲生沢川門栗ヶ淵に身を投げたの
だ。悲劇はそれだけでは済まなかった。
稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体は、「汚
らわしい」と河川敷に放置されたのだ。
放置され3日後に、哀れに思った下田宝福寺の第
15代竹岡大乗住職により、宝福寺の境内脇に埋葬
された。(実家の斎藤家からも弔いを断られた)
お吉の法名は「釈貞観尼」
その後、住職も地域の人たちに、勝手に弔ったと
して、迫害を受け下田を去ることになる。
門栗ヶ淵は今では「お吉ヶ淵」と名を変えている。
宝福寺には、今もお吉のお墓があり、お基地に関
する展示も行っている。
※引用元:http://www2.shimoda-city.info/shimoda/FMPro?-db=shimoda_kan1.fp5&-lay=web&-format=page_look2.html&NO=199&-find
また、お吉ヶ淵には、5千円札の新渡戸稲造によ
って建立された地蔵尊がある。
※引用元:http://susono.jugem.jp/?eid=332
お吉の命日の3月27日には、お吉ヶ淵で下田芸者と
フラワーショップに依る法要が行われている。
宝福寺では、お吉に因んで芸能大会が行われてい
る。
※引用元:http://www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html
※引用元:http://www.geocities.jp/the_traveler_of_wind/kanto_ive/01_03/ivent03_p1.htm
この話は、昭和の時代になるまで知られることは
無かった。
1928年に十一谷義三郎著 小説「唐人お吉」で、
世間に広く知られることとなる。
よろしければ こちらの記事もご覧下さい。
◇大河ドラマ花燃ゆ=第7話=豆知識その17脇差は現存していた!
◇大河ドラマ花燃ゆ=第8話=豆知識その19唐人お吉
◇大河ドラマ花燃ゆ=第4話=豆知識その13形見の赤間硯
◇大河ドラマ花燃ゆ=第1話=豆知識その5萩から長崎、江戸まで何日?
◇大河ドラマ花燃ゆ=第3話=豆知識その10ペリー艦隊
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第8話での年齢
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第8話の主な出来事
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・兄 吉田松陰(伊勢谷友介)松下村塾を開きそう
・後の夫 久坂玄瑞 再登場 松陰の手紙のやり取り
・従兄弟 吉田稔麿 明倫館就学出来ず
・塾生 高杉晋作 登場
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同じ頃、吉田松陰にもゆかりの地、下田で悲しい物語
が、始まろうとしている。
→:は大河ドラマ花燃ゆ、八重の桜に関する事柄と
時代背景
そう、下田で悲しい物語と言えば、『唐人お吉』
である。
唐人お吉、本名を斎藤きちという。
1841年12月22日-1890年3月27日(享年59)
→杉文からは4つ上となる。
→
→山本八重は杉文より2つ下なんですよ。
愛知県南知多町内海で生まれる。
父親は船大工を営んでいた。
→吉田稔麿、伊藤博文誕生
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1845年(4歳)に一家で下田坂下町に移り住む。
船大工の仕事を求めてのことだろう。
→杉文が生まれる。
→杉敏三郎が生まれる。
1848年(7歳)河津城主の愛妾 山村せんの養子とな
り、せんから、琴、三味線所謂芸事を習う。
→杉家 松陰神社の地に移居する。
1854年12月23日(13歳)安政の東海地震発生
津波で家を流されたお吉は実家の斎藤家に身を寄
せることとなった。
→松陰 黒船密航
→小田村伊之助の長男 希家誕生
1855年(14歳)せんが亡くなり村山家から離縁され
芸者となり名を「お吉」とする。
瞬く間に下田一の人気芸者となる。
写真でお分かりのようにかなりのベッピンさんで
ある。人気芸者になるのも当然だ。
お吉は「新内明烏のお吉」と唄われる程の評判と
美貌の持ち主だったという。
新内=浄瑠璃の唄い方ひとつ
明烏=新内の三大名作のひとつ明烏(明烏夢泡雪)
この唄が評判になったということです。
→松陰が野山獄がら出獄し杉家での蟄居となる。
→花燃ゆ第7話での事柄
※引用元:http://bakumatsu.org/men/view/232
写真は当人ではないという説もあるが定かとはさ
れていない。
1857年5月(16歳)日本初代アメリカ総領事タウン
ゼント・ハリスが体調を崩し床に伏した。
その為、世話をする看護婦が必要となりった領事
館は、地元の役所(下田奉行所と思われる)に、
看護婦を要請した。
→吉田稔麿 明倫館入学を断られる
→杉家の敷地に松下村塾を開塾
→大河ドラマ花燃ゆ第8、9話での事柄
当時、日本には看護婦の概念が無かった為、妾や
娼婦と勘違いし、芸妓を斡旋した。
という説とは
別に、色仕掛けでハリスを落とし幕府の交渉事を
優位にしようとした。説がある。
前者が広まっているが、どうも後者が正しいと思
われる。
下田奉行所支配頭取の伊佐新治郎は人気芸者であ
ったお吉に白羽の矢を立てた。
だが、お吉には幼馴染の婚約者がいた為、奉行所
の要請を固辞した。
奉行所も、はい、そうですかとはいかない。
あの手この手で、お吉に承諾を迫る。
その手は、幼馴染の大工 鶴松にも及んだ。
一説では、鶴松にお金を渡して下田から追い出し
たという。
とうとう、お吉も承諾して、領事館に従事知るこ
ととなる。
領事館は、下田の玉泉寺に置かれていた。
(1856年-1859年)
現在では、
境内にはハリス記念館が併設されている。
日本に初めて牛乳が伝えられた地でもある。
カーター大統領を始め歴代のアメリカ総領事も訪
れる日米友好地となっている。
※引用元:http://www.izu.co.jp/~p-boo/gyokusenji.html
領事館に従事したお吉だが従事する経緯を知った
ハリスは激怒して、3日間でお吉は解雇された。
従事する経緯とは、前出の妾説か色仕掛け説、婚
約者説のいずれかは、解っていない。
直さま、斎藤家は復職を願い出て、願いが聞き入
れられた。
お吉の給金目当てのことだろうと推測される。
お吉の給金
ハリス侍妾の支度金25両
年俸 120両(月10両)
(他のハリスの召使いは月1両2分)
当時は、10両盗めば首が飛ぶと言われていた。
再び、領事館に従事することになったお吉だが、
約3ヶ月後には、ハリスが回復し、お役御免とな
った。
なので、お吉が貰った給金は支度金と合わせて、
55両となる。
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その後、お吉は元の芸者に戻る。
当初は同情的だった周囲の人達だが、次第に羽振
りが良くなるお吉に嫉妬、侮辱の目を向けるよう
になっていく。
ここで、疑問が出てくることがある。
領事館に従事した、日本女性はお吉の他にも4人
いることが解っている。(名前も解っている)
何故、お吉だけがバッシングを受けることになっ
たのだろう。
考えられる理由は、
・一度クビになったのに給金欲しさに願い出た。
・2ヶ月しか働いていないのに3ヶ月分の給金を
手にした。
月給なので1日でも働けば1ヶ月分貰えた。
・城主の愛妾の養子であった。
・生まれが他の地域である。
などが、挙げられる。
羨ましいが嫉妬になり、浅ましいとか、意地汚い
といった感情を尾ヒレに噂が広まったのだろう。
よそ者なので、ターゲットに成り易かったのも災
いしていたのだろう。
他の4人は地元の人だったのではないだろうか?
バッシングを受け続けたお吉は、次第に、酒の溺
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そんな日々を過ごしていたお吉だが、1959年にハ
リスが江戸に移った後、暫くして、下田を出た。
→安政の大獄 吉田松陰 斬首
→大河ドラマ花燃ゆ第12話当たりになりそうな事柄
下田を出たお吉は芸者で路銀を稼ぎながら、各地
を放浪し、約9年後横浜に辿り着く。
横浜で幼馴染で婚約者だった鶴松と再開した。
お吉は鶴松が横浜にいることを知っていて横浜を
目指したんだろうな。
横浜で鶴松と一緒に暮らす。お吉28歳の事である。
1869年であろう。
→旧幕府軍(榎本武揚、土方歳三)が
「蝦夷共和国」を樹立
→明治天皇が東京に到着
→箱館戦争が終結
→版籍奉還が成る
→戊辰戦争の官軍側戦死者を祀る神社として、
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→蝦夷地を北海道と改称
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お吉、鶴松は、下田に戻りる。
お吉は髪結い、鶴松は船大工を営む。
だが、お吉へのバッシングは続いており、髪結い
の商いは芳しくなかった。その為、お吉は酒に溺
れるようになっていく。
夫婦喧嘩も耐えなくなる。
5年後は、鶴松と別れる。その後すぐ鶴松は病死。
鶴松(幼名)=川井又五郎
お吉は再び下田を離れ、三島の金本楼で住み込み
の芸者をする。(1877年36歳)
→山本覚馬 京都府会議員初代議長となる
→西南戦争
→東京大学、明治学院大学、学習院設立
三島での暮らしも2年余りで下田に戻り、髪結い
を営みながら、宴会の席もこなしながら生計を建
てていた。(1880年39歳)
そんな生活を続けていたが、お吉への周囲の偏見
はいまだに謂えていなかった。
そんな、お吉を哀れに思った船主の後援で、小料
理屋「安直楼」を開く。
しかし、既に、酒に犯されたお吉は、酔って暴れ
たりしていた為、2年程で閉店となった。
現在も「安直楼」の建物が残されている。
※引用元:http://nobuya-w.cocolog-nifty.com/photos/simoda/12antyokurou.html
その後のお吉は物乞いをして生き延びていた。
そして、1890年3月27日遂に、悲劇が起きた。
お吉は、下田の稲生沢川門栗ヶ淵に身を投げたの
だ。悲劇はそれだけでは済まなかった。
稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体は、「汚
らわしい」と河川敷に放置されたのだ。
放置され3日後に、哀れに思った下田宝福寺の第
15代竹岡大乗住職により、宝福寺の境内脇に埋葬
された。(実家の斎藤家からも弔いを断られた)
お吉の法名は「釈貞観尼」
その後、住職も地域の人たちに、勝手に弔ったと
して、迫害を受け下田を去ることになる。
門栗ヶ淵は今では「お吉ヶ淵」と名を変えている。
宝福寺には、今もお吉のお墓があり、お基地に関
する展示も行っている。
※引用元:http://www2.shimoda-city.info/shimoda/FMPro?-db=shimoda_kan1.fp5&-lay=web&-format=page_look2.html&NO=199&-find
また、お吉ヶ淵には、5千円札の新渡戸稲造によ
って建立された地蔵尊がある。
※引用元:http://susono.jugem.jp/?eid=332
お吉の命日の3月27日には、お吉ヶ淵で下田芸者と
フラワーショップに依る法要が行われている。
宝福寺では、お吉に因んで芸能大会が行われてい
る。
※引用元:http://www.izu.co.jp/~p-boo/okichi.html
※引用元:http://www.geocities.jp/the_traveler_of_wind/kanto_ive/01_03/ivent03_p1.htm
この話は、昭和の時代になるまで知られることは
無かった。
1928年に十一谷義三郎著 小説「唐人お吉」で、
世間に広く知られることとなる。
◇大河ドラマ花燃ゆ=第8話=豆知識その19唐人お吉
◇大河ドラマ花燃ゆ=第4話=豆知識その13形見の赤間硯
◇大河ドラマ花燃ゆ=第1話=豆知識その5萩から長崎、江戸まで何日?
◇大河ドラマ花燃ゆ=第3話=豆知識その10ペリー艦隊
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