大河ドラマ花燃ゆ=第8話=豆知識その20:明倫館と吉田稔麿 [花燃ゆ]
『花燃ゆ』主人公:杉文(井上真央)
第8話での年齢12歳14歳
(1845年)1843年3月1日生まれ
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第8話の主な出来事
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・兄 吉田松陰(伊勢谷友介)松下村塾を開きそう
・後の夫 久坂玄瑞(東出昌大) 再登場 松陰の手紙のやり取り
・従兄弟 吉田稔麿(瀬戸康史) 明倫館就学出来ず
・塾生 高杉晋作(高良健吾) 登場
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吉田稔麿が入塾出来なかった、明倫館について。
明倫館は、長州藩の藩校で日本三大学府のひとつ。
日本三大学府は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌。
会津藩の日新館は含まれていないのですね。
水戸藩の弘道館には、東北遊学の際に松陰が立ち
寄っています。
その時の繋がりで、野山獄から出られるように、
水戸藩が口添えしてくれたのかも知れませんね。
話を明倫館に戻します。
明倫館は、萩明倫館と山口明倫館がありました。
現在は、萩明倫館が明倫小学校に、山口明倫館は
山口県立美術館、鳳陽館になっている。
出身者は、つぎの通りである。
萩明倫館
・桂小五郎
・長井雅楽
・吉田松陰
・高杉晋作
・井上馨
・国重正文
何れも、明治維新を牽引した人々だ。
だから、名前が残っているのですけどね。
大河ドラマ花燃ゆにも登場していますね。
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明倫館は、1718年長州藩第6第藩主毛利吉元が創設。
毛利家家臣の子弟教育の為に造られた。
入学は、士分と認められた者に限られた。
吉田稔麿の家は、『軽卒(十三組中間)』の位でした。
杉家は、それより上の『無給通り』で武士と認められる
一番下の階級で「士」と呼ばれていた。
それより下の『軽卒』の吉田稔麿の家は武士擬きで「卒」
と呼ばれるくらいだった。
「士分」ではなかった吉田稔麿は、藩から認められないと
入学できない身分だった。
杉家は、「士分」であった為、入学が出来た。
1863年には、「卒」も入学できるようになった。
吉田稔麿が入学を認められなかったのは1857年頃です
ので、規則としては正しい訳です。
※引用元:http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics8.html
何故、長州藩は勉学に力を入れたのか?
ここからは、私感です。
遡ること、更に300年の1557年に長州藩の藩主毛利家の
祖先、毛利元就が記した『三子教訓状』を祖とすると
思う。
『三子教訓状』は、あの有名な「三本の矢」の元とな
った書状で、元就の3人の息子(隆元・元春・隆景)
に託したものだ。
その教えに沿って3人は政を行っていた。
そこに、攻めてきたのが、織田軍豊臣秀吉に仕える
黒田官兵衛である。
毛利と織田が戦う訳ですが、結果として、毛利は黒田
官兵衛の知略に屈する事になります。
大河ドラマ軍師官兵衛でも時間をかけて
語られていましたね。
その教訓が、家訓となり代々受け継がれ、6代目にし
て1718年明倫館として形になったのだと思います。
よろしければ こちらの記事もご覧下さい。
◇大河ドラマ花燃ゆ=第7話=豆知識その17脇差は現存していた!
◇大河ドラマ花燃ゆ=第8話=豆知識その19唐人お吉
◇大河ドラマ花燃ゆ=第4話=豆知識その13形見の赤間硯
◇大河ドラマ花燃ゆ=第1話=豆知識その5萩から長崎、江戸まで何日?
◇大河ドラマ花燃ゆ=第3話=豆知識その10ペリー艦隊
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第8話での年齢
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第8話の主な出来事
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・兄 吉田松陰(伊勢谷友介)松下村塾を開きそう
・後の夫 久坂玄瑞(東出昌大) 再登場 松陰の手紙のやり取り
・従兄弟 吉田稔麿(瀬戸康史) 明倫館就学出来ず
・塾生 高杉晋作(高良健吾) 登場
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吉田稔麿が入塾出来なかった、明倫館について。
明倫館は、長州藩の藩校で日本三大学府のひとつ。
日本三大学府は、水戸藩の弘道館、岡山藩の閑谷黌。
会津藩の日新館は含まれていないのですね。
水戸藩の弘道館には、東北遊学の際に松陰が立ち
寄っています。
その時の繋がりで、野山獄から出られるように、
水戸藩が口添えしてくれたのかも知れませんね。
話を明倫館に戻します。
明倫館は、萩明倫館と山口明倫館がありました。
現在は、萩明倫館が明倫小学校に、山口明倫館は
山口県立美術館、鳳陽館になっている。
出身者は、つぎの通りである。
萩明倫館
・桂小五郎
・長井雅楽
・吉田松陰
・高杉晋作
・井上馨
・国重正文
何れも、明治維新を牽引した人々だ。
だから、名前が残っているのですけどね。
大河ドラマ花燃ゆにも登場していますね。
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明倫館は、1718年長州藩第6第藩主毛利吉元が創設。
毛利家家臣の子弟教育の為に造られた。
入学は、士分と認められた者に限られた。
吉田稔麿の家は、『軽卒(十三組中間)』の位でした。
杉家は、それより上の『無給通り』で武士と認められる
一番下の階級で「士」と呼ばれていた。
それより下の『軽卒』の吉田稔麿の家は武士擬きで「卒」
と呼ばれるくらいだった。
「士分」ではなかった吉田稔麿は、藩から認められないと
入学できない身分だった。
杉家は、「士分」であった為、入学が出来た。
1863年には、「卒」も入学できるようになった。
吉田稔麿が入学を認められなかったのは1857年頃です
ので、規則としては正しい訳です。
※引用元:http://www.pref.yamaguchi.lg.jp/cms/a19300/ishinshi/topics8.html
何故、長州藩は勉学に力を入れたのか?
ここからは、私感です。
遡ること、更に300年の1557年に長州藩の藩主毛利家の
祖先、毛利元就が記した『三子教訓状』を祖とすると
思う。
『三子教訓状』は、あの有名な「三本の矢」の元とな
った書状で、元就の3人の息子(隆元・元春・隆景)
に託したものだ。
その教えに沿って3人は政を行っていた。
そこに、攻めてきたのが、織田軍豊臣秀吉に仕える
黒田官兵衛である。
毛利と織田が戦う訳ですが、結果として、毛利は黒田
官兵衛の知略に屈する事になります。
大河ドラマ軍師官兵衛でも時間をかけて
語られていましたね。
その教訓が、家訓となり代々受け継がれ、6代目にし
て1718年明倫館として形になったのだと思います。
◇大河ドラマ花燃ゆ=第8話=豆知識その19唐人お吉
◇大河ドラマ花燃ゆ=第4話=豆知識その13形見の赤間硯
◇大河ドラマ花燃ゆ=第1話=豆知識その5萩から長崎、江戸まで何日?
◇大河ドラマ花燃ゆ=第3話=豆知識その10ペリー艦隊
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